クラブの歴史

 1966(昭41)年ごろ、大阪三津屋道院(当時)では関西学院大学の学生およそ40人が、修行に励んでいた。彼らは法学部3年の高橋美朗の雄弁さとカリスマ性にひかれて集まった者たちだった。高橋らはかねてから当時の世の中の風潮を憂いており、学内に少林寺拳法の同好会を発足させて真の学生武道家としての道を示そう、という気運が高まっていった。

 しかし、直前になって大半の学生が学生運動にはしったため、67年、高橋を中心とする"七人の侍"での旗揚げとなった。ポスターや同好会誌でのPRのほか、学生下宿を回って「武道をやってみないか」と勧誘。ちょうど少林寺拳法ブームだったため、カッパブックス(宗道臣著『秘伝 少林寺拳法』)を手に部室を訪ねてくる学生もおり、すぐに十数名の仲間が集まったという。同年、桜田恒・大阪三津屋道院長(当時)を監督に迎え、本部の認証を受けた。

 当初は練習場所などなく、鍬やスコップを担いで近辺の山の中に入り、地面をならして練習できるスペースをつくった。この熱心な活動ぶりを見て、地主の山田氏が所有する土地に小屋を建ててくれ、十年間ほどはここを格安で借りて、練習をしていた。

 三代の平田昌昭主将、三谷章、赤木建夫両副将らが、実質的なクラブの基礎固めに取り組んだ。69年には関西学生少林寺拳法連盟に加盟し、初出場した同年関西学生大会で、嘉藤正則が個人乱捕りで優勝した。強さを求めて、ふだんの練習も激しさを極め、体力の限界に挑戦しようと淡路島に渡り、岩屋・洲本間の三十数キロを往復で夜間行軍したこともあった。

 77年、一一代の井上繁、団雅司、栗山淳一、中山雄次らが中心となって、一〇周年記念式典を開催した。また、81年には一五代の吉鶴剛行、田渕昭典、川嶋令也らの頑張りにより、関西学生大会で初の総合準優勝を果たした。

 86年には二〇周年記念式典を盛大に開催。二一代の村上絵里子が見事な演武を披露した。村上は、すべての練習を男子と同様にこなした女子部員第一号。その後、数人の女子が入部したが、いずれも男子顔負けの気力、体力を兼ね備えており、同クラブの硬派な雰囲気を軟弱化させることはなかったという。

 同年から、三年間という条件付きで報徳学園高校の位田隆久部長に監督を依頼。毎週土曜日ごとに、同校に通って合同練習をおこなっていた。やがて約束の年がきて、「OBの中から指導者を」とOB会で検討した結果、小倉裕に白羽の矢が立った。その後、96年の三〇周年記念式典と同時に新たに田渕昭典が監督に就任した。

 世紀を跨ぎ2006年には四〇周年記念式典を迎えることになった。また同年の全日本学生大会では運用法(乱捕り)男子初・二段の部で四〇代の木村賢司主将が優秀賞に輝いた。

 近年も演武、運用法両面で目覚ましい成績を挙げている。09年には、四三代の南愛主将、四四代の石井沙織副将、四五代の長谷川未来主将の三名が全日本学生大会で三人掛け女子の部一位となる。南は前年度、女子部員からクラブ初めての主将を務めていた。

 11年の関西学生新人大会では四六代の篠原佳佑主将を中心としたクラブ全体の勢いによって総合準優勝を獲得した。学生大会における総合賞の獲得は81年以来のことであった。12年の関西学生新人大会でも総合三位となる。さらに、13年の少林寺拳法世界大会では四七代の拝村勇輝主将、四九代の神田燿嘉副将が組演武男子二段の部で世界二位の快挙を成し遂げた。

 14年には、関西学生大会で総合準優勝となり、全日本学生大会では運用法女子超軽量級の部で四九代の高谷茜が一位となった。また、同年の関西学生新人大会では再び総合準優勝を果たす。また、この年の関西学生少林寺拳法連盟委員長に四九代の土井友里栄が選出された。

 そして、15年の関西学生大会では遂に四九代の小原一輝主将らが一丸となり、クラブ史上初の総合優勝の栄冠を手にすることができた。

 

(『少林寺拳法五十年史 第二部 道院・支部の記録』より加筆修正)